「ウラァ、タイショウ」江戸後期の偉人、高田屋嘉兵衛とは!?

 前回のブログからとうに7か月が過ぎてしまいました。ようやくブログ画面に向き合う時間が取れるようになりました。嬉しい限りです!

 新刊本『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』も、ようやく去る2月11日の建国記念の日に晴れてAmazonから電子書籍と印刷媒体で出版することが出来て一段落、年末から訪れたいと思ってなかなか行けなかった淡路島洲本市五色町都志(ごしきちょうつし)の「髙田屋顕彰館」(歴史文化資料館 菜の花ホール)へ先月8日(金)行ってまいりました。少し前のことになりますが皆様にも是非お話させていただきたくご紹介致します。私は高田屋嘉兵衛は江戸後期の廻船業者だということぐらいしか知らず、顕彰館を訪れてビックリ!?己が不明を恥じています。

 北前船で全国を駆け巡り、北海道函館を拠点として北方四島の国後島・択捉島間の航路まで開拓してその名をとどろかせた淡路の商人、大人(うし)「高田屋嘉兵衛」(たかたやかへえ)、司馬遼太郎をして『江戸期の日本において最も偉大な日本人』と言わしめた人物。詳しくはネット等でお調べいただければと思いますが、漁場運営と廻船業で巨万の富を築いて函館の発展にも貢献されました。ゴローニン事件※でカムチャッカに連行されますが、日露交渉の仲介役を買って出て事件解決へと導いた傑物です。俳優竹中直人と鶴田真由主演でNHKでドラマ化されましたね。(残念ながら私は見ずじまいです。)

 ※ 「ゴローニン事件」とは、1811年千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3カ月間日本に抑留された事件。髙田屋嘉兵衛は、その翌年ロシア側の報復として同じく国後でロシア側に捕らえられることとなるが、意を決した嘉兵衛がリコルド副艦長に懸命の申し出を行い、ロシアと幕府との間の仲介交渉の労を執った結果、双方が共に釈放されて交換により帰国することが出来て一件落着となった。

 

 (高田屋嘉兵衛公園:ウエルネスパーク五色の丘に立つリコルドと嘉兵衛の像)

 顕彰館を訪れて最も感動したのは、館内に司馬遼太郎が嘉兵衛の故里「都志」を取材に訪れた際の写真とともに掲げられていた一文(「司馬遼太郎が語る日本」(週刊朝日1996年5月24日号)朝日新聞社より抜粋)です。少し長くなりますが引用してご紹介致します。

(タイトル)「菜の花の沖」について

人の偉さは測りにくいものですが、その尺度を英知と良心と勇気ということにしましょうか。

 では、江戸時代を通じて誰が一番偉かったでしょうか。

学者、大名、発明家、いろいろ出ました。

私は、高田屋嘉兵衛だろうと思います。それも二番目が思いつかないくらいに偉い人だと思っています‥‥

いま生きていても、世界のどんな舞台でも通用できる人ですね。世界史的に見ても偉い人でした。

 これは「菜の花の沖」という小説で高田屋嘉兵衛を書き、嘉兵衛と十年近くもつきあってよくわかりました。

 ゴローニンが釈放され、嘉兵衛の仕事は終わります。ロシアの軍艦が函館を去って行く。

その時リコルド艦長以下、全ての乗組員が甲板上に出てきて、見送る嘉兵衛に叫びました。

「ウラァ、タイショウ !」

ご存知のように「ウラァ」 はロシア語で万歳という意味です。別れを惜しみ、感謝してくれた。

嘉兵衛はこの感激を生涯忘れませんでした。淡路で亡くなるときに、枕元の人たちに頼んだそうです。

「大将、ウラァと言ってくれ !」と‥‥

めったに優れた人間というのはないんです。

すぐれた人間というのは、金もうけができる人とか、そういう意味ではありません。

よく働くことも結構ですが、そいういうことでもない。

やはり魂のきれいな人ですね‥‥。

 総理大臣になることより、大きな企業の社長になることより、

死ぬときに  「大将、ウラァ」  ということがあるかないか、

あの瞬間がおれの人生だったという思い出を持つかどうかが大事だと思います。

 如何でしょうか。私はこの一文の前でしばし佇み、このところの煩わしい諸事などを思い浮かべて我が身を振り返り恥じ入っておりました。

 2時間近く館内を見て回ったでしょうか。外へ出てすぐに嘉兵衛のお墓にまいりました。

淡路の生んだ大人のお墓は打ち寄せる波音がすぐそこに聞こえる丘の端に慎ましやかに建てられており、風通しの良い木立の中、木漏れ陽と鳥のさえずりが嘉兵衛と弟金兵衛を包んでいました

 清々しい気持ちで見晴らしの良い壮大な公園をしばし眺め、満ち足りた気持ちで五色町を後にしました。

 

 なお、小著「古代史入門」(Amazon出版本)249頁、「甦る皇都阿波(ヤマト)への旅」(同左)229頁にも嘉兵衛のことに「北海道航路を受け持ったのは阿波路の商人」として触れておりますのでご一読いただければ幸いです。以上