古事記

古事記

私達は、記紀神話は太古の史的伝承を伝えようとしたもの(田中卓博士)であって、実在した王や英雄が次第に神格化され、やがて神話が形成されていったと考えています。これを裏付けるように、阿波では記紀の記録が神話や創作としてではなく、ほぼ実在した史実として連綿と立体的に組み立てられるのです。

天石門別八倉比売神社
天石門別八倉比売神社

国生み

皆さん、古事記の物語の初めに伊邪那岐命と伊邪那美命の二柱の神が我が国を構成する国々(十四島八か国)を生んでいく話し(国生み)があることはご存じでしょうか。この国生みの意義については、その順序や島の名義等が大和朝廷(天皇家)との関わりの深さや古さを表しているとみられ、東京大学の金子武雄教授が述べておられるように、「島生みは淡路島に始まり、四国・隠岐・九州・壱岐とつづくこと、また四国と九州の二つについては、特別に地勢が詳しく語られ、国分けも行われているのに対し、大和の朝廷にとって最も大切な島であるはずの本州については、ただ名だけが、しかも一番最後にあげられている」のです。
(『古事記神話の構成』南雲堂桜楓社 国語国文学研究叢書:昭和38年)

国生みは十四島ですが、そのうち国分けされているのは八か国(四国:四か国、九州:4か国)だけで吉備や奈良大倭は国に付属する “島” でしかないのです。上述の金子教授は、奈良大倭に対する九州の優位性を唱えておられますが、国生み全体で見ると九州は四国にことごとく及ばないのです。古代天皇家が最も古くから関係を持った国、言い換えれば天皇家の発祥地が四国であったことを示しています。

大鳴門橋横から淡路島を望む
大鳴門橋横から淡路島を望む

この国生みで、最初に葦船で流された「水蛭子(ひるこ)」、次の、子の数には入れられなかった「淡島(あはしま)」に続いて生まれた子(島)が「淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)」ですね。現在の淡路島のことです。その意味するところは、「阿波(粟)の穂先の一部を取って造った島」であるということです。

かの大著『古事記伝』を著した本居宣長(※1)は、同著で「和名抄(※2)に阿波知(あはじ)、‥‥‥名義は、阿波国へ渡る海道(うみつじ)にある嶋なる由(よし)なり。京路 山跡路(みやこじ やまとじ)など云うは常なる中にも、万葉に筑紫路 土佐道(つくしじ とさじ)ともよみ、又山跡道之嶋(やまとじのしま)ともよめれば、阿波道之嶋(あわじのしま)うたがひなし」と述べているとおり「阿波に渡るための島」なのです。『大日本地名辞書』にも「淡路は淡道に作る。阿波に至る途上の島なれば此名あり」と書かれています。すなわち、国生みは四国の阿波に渡るために最初に淡路島が生み出されているのです。これは列島の国の始まりに十四島八か国が生み出され、主宰者である天皇家が歴史の扉を開く、その降り立つ始原の地が四国の阿波であることを指し示すものなのです。
※1 江戸時代中期の国学者・文献学者・医師で伊勢松坂(今の三重県)の人。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学四大人」の一人とされる。1798年、35年の歳月を費やした古事記全編に亘る注釈書『古事記伝』(全44巻)を完成す。
※2 『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の略称、源順(みなもとのしたごう)の編纂になる平安時代中期に作られた辞書

大鳴門橋横から淡路島を望む (2)
大鳴門橋横から淡路島を望む (2)

阿波説では、もうこの国生み一つだけで阿波が日本の元つ国であることの決定打であると考えています。もし奈良大和が国生みの主座であるというのであれば初めに生まれるのは淡路島ではなく「大和路島(おおやまとじしま)」でなければなりません。

鳴門市「千畳敷」から大鳴門橋下方を望む
鳴門市「千畳敷」から大鳴門橋下方を望む

阿波国と大和国の風土記逸文(※)

(※「風土記」とは、狭義には奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごとに記録編纂して天皇に献上させた報告書をさすが、風土記は俗称であり正式名称は「解(げ)」という。「逸文」とは、和銅6年(713年)に官命に基づき編纂された「古風土記」のうち、現在まで書物としては伝えられず、その一部が後代の諸文献に引用されて伝えられたものをいう。)

 阿波が歴史の始原の地であり日本の元つ国であるということを別の資料、『風土記』で見てみたいと思います。ただ、阿波国も大和国(現在の奈良県)も出雲国風土記(733年)のように全部の内容は残っておらず、わずかにその逸文だけが残っています。しかし、古代の阿波国と大和国がどのような所であったのかということを比較するにはこの逸文の内容だけで十分ですので岩波書店:日本古典文学大系からそれぞれ引用してご紹介します。

岩波古典文学大系『風土記』(岩波書店刊)
日本古典文学大系『風土記』(岩波書店刊)

【阿波国風土記】逸文 -アマノモト山-

『阿波國ノ風土記ノゴト(如)クハ、ソラ(天)ヨリフ(降)リクダ(下)リタル山ノオホ(大)キナルハ、阿波國ニフ(降)リクダ(下)リタルヲ、アマ(天)ノモト山ト云(いひ)、ソノ山ノクダ(砕)ケテ、大和國ニフ(降)リツ(着)キタルヲ、アマ(天)ノカグ(香具)山トイ(云)フトナン申(まをす)。』

(現代語訳)
『阿波国の風土記によれば、天より降ってきたといわれる大いなる山とは、阿波の国に降り付いた天の元山であり、その山のかけらが奈良大和に降り付いたのが天の香具山であると云い伝えられている。』

岩波書店:日本古典文学大系「風土記492頁」の頭注では、「天元山また天基山の意。遺称なく所在不明。新考は剣山に擬するが確かでない。」としていますが、これは阿波のことを何もご存じない学者の見解であって、私たち阿波人はよく知っています。「天の元山」とは、天つ神々が事始めた神聖な「祖山(おおやま・もとのやま)の意で、天照大神が治めた高天原と同義です。その山は阿波の剣山地を指し、今もその名残として「祖山(いややま)」・「宗山(そうやま)」・「元山(もとやま)」の地名が伝わり、同山系の土佐に「本山(もとやま)」の地名も残っているのです。

剣山頂上近くからの遠望
剣山頂上近くからの遠望

「阿波国風土記」は、710年の平城遷都後に出雲国風土記等と同じ頃に撰進されたとみられていますが、この逸文は「‥‥‥皇都は阿波から奈良大和に遷ったがその母国は阿波である‥‥‥」との記憶を誇らしげに伝えた阿波の国人(くにびと)の記録です。その内容は他の風土記とは隔絶しており、書き出しは古事記と同じ「天地(あめつち)の初めて發(ひら)けしとき‥‥‥」であると言われているのです。また “阿波弁” が古事記文中に散見されており、古事記が「阿波国風土記」に描かれた元つ国阿波を基に記述されたといわれる所以です。

剣山頂上から「次郎笈(じろうぎゅう)」を望む
剣山頂上から「次郎笈(じろうぎゅう)」を望む

天照大神が治めた始原の地(天皇家の発祥地)「高天原」阿波剣山(つるぎさん)一帯を指し、神祀りの聖域の中心鮎喰川(あくいがわ)流域で、下流域の徳島市国府町 “矢野神山” 天照大神の葬場、「天石門別八倉比売神社(あまのいわとわけやぐらひめじんじゃ)」の鎮座地です。

剣山頂上「三角点」に立つ4人の古代史先達
剣山頂上「三角点」に立つ4人の古代史先達

古事記では「天照大神」とされていますが、阿波の古社では「天照大神」の神名は一切出て来ず、阿波では古来「大日孁命(おおひるめのみこと)」と申します。徳島市南の東海岸には「大神子(おおみこ)」・「小神子(こみこ)」の地名があり、「日神子命」で「ヒミコノ命」と読まれている。万葉集巻二167番日並皇子尊(※)の殯宮(ひなみしのみこのみことのあらきのみや)の時に柿本人麻呂の作る歌の中に出てくる「日女命(ひるめのみこと)」と同じです。(※ 日並皇子尊=草壁皇子:天武天皇と持統天皇の間の皇子)

「天照大神」という神名は古事記選定時かその後に作り出された名であり、したがって「天照大神」という神名の神を祭神とする神社は古事記選定後に作られた新しい神社です。

剣山頂上近くから北西方向を望む
剣山頂上近くから北西方向を望む

【大和国風土記】逸文 -大口の眞神原-

『むかし明日香の地に老狼在(おいおほかみあり)て、おほく人を食(くら)ふ。土民畏(どみんおそ)れて大口の神といふ。其の住める處(ところ)を名づけて大口眞神原(おおくちのまがむがはら)と號(いふ)と云々。風土記に見へたり。』

(現代語訳)
『むかし明日香の地に年老いた狼が住んでいて多くの人を食らっていた。里人は狼を恐れて大きな口の神と言い、その住んでいる所を名付けて大口の眞神原と呼んでいた、というようなことが風土記に書かれている。』

この逸文の伝えの意味からすれば「魔神が原」が本来の表記ですね。なので、魏志倭人伝の時代には大口の魔神が原(狼が原)と呼ばれた未開の地であったのです。現在の奈良地方が「大倭」と呼ばれるようになったのは、はるか後代「記紀」の時代が終わって「続日本紀」(797年成立:全40巻)、「日本三大実録」(901年成立:全50巻)で正史が記されるようになってからのことです。

これを裏付ける万葉集の歌をご紹介します。

【万葉集巻八1636番】舎人娘子(とねりのをとめ)の雪の歌一首
『大口の 眞神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに』

(現代語訳)
真神の原に降る雪はひどく降らないでおくれ、家もないのだから。
(岩波書店:日本古典文学大系「万葉集二346頁」の頭注によれば、この歌が詠まれたのは8世紀初頭から前期であるといわれています。)

「手力男神」(たじからおのかみ:古事記「邇邇芸命」天孫降臨条)

「天石門別神社」(徳島県名東郡佐那河内村上字牛小屋)社殿を望む
「天石門別神社」(徳島県名東郡佐那河内村上字牛小屋)社殿を望む

古事記は阿波一国の物語であり、どこの箇所を取り上げても阿波のことが書かれているのですが、最も分かりやすい事柄を一つ取り上げて説明させていただきましょう。

古事記上巻「邇邇芸命」天孫降臨条に次の文が見えます。
『手力男神は佐那那縣に坐す。』
(現代語訳:手力男神は佐那那縣にいらっしゃいます。)

皆さん、この「佐那那縣」は何処だかご存じでしょうか。
諸学者は三重県の地だと説明されています。例えば岩波古典文学大系の頭注では「佐那の県(サナノアガタ)の意。神名帳に伊勢国多気郡、佐那神社とある。(128頁)」

ちょっとお待ち下さい! 地名だと述べておられながら「佐那神社」とは、地名の説明にはなっていないのではないでしょうか。

「天石門別神社」(徳島県名東郡佐那河内村上字牛小屋)社殿を望む (2)
「天石門別神社」(徳島県名東郡佐那河内村上字牛小屋)社殿を望む (2)

講談社学術文庫でも現代語訳は「タヂカラヲノ神は、伊勢の佐那県に鎮座しておられる。(178頁)」としながら、注では「佐那の県の意。伊勢国多気郡に、手力男神を祭る佐那神社がある。」として、大系と同じく地名ではなく神社の説明をしてごまかしておられます。角川文庫に至っては、とするのみで具体的な地名の説明はありません。

皆さん、近畿奈良でいくら古事記の舞台を考証しようとしてもどだい無理な話しなのです。阿波なのですから、古事記の舞台は。

大多数の国民の方々が古事記の舞台は(出雲神話と天孫降臨条を除いて)奈良であると考えていますが、これは津田左右吉に影響を受けた諸学者や歴史教育による固定観念であり、阿波のことが視野にないのでこのような真実の歴史とかけ離れた話しとなってしまうのです。

「天石門別神社」のご祭神、「手力男神」を祀った “塚”
「天石門別神社」のご祭神、「手力男神」を祀った “塚”

ご説明致しましょう。「佐那那縣」とは、徳島県名東郡佐那河内村(徳島市の南西約15km)のことです。佐那河内村史には旧名『佐那県(また狭長県と称す)』とあり、まさに古事記の記述どおりの地名なのです。
また、日本書紀によれば、「天孫邇邇芸命は天照大神から高天原の稲穂を授かり、狭長田で稲を育てた。」と記されていますが、『狭長田』という狭くて細長い田の形容はまさに佐那河内村の地形に一致しており、佐那河内村は古来、「佐那県」、あるいは「狭長村」と呼ばれ、阿波で最も古くから米作りが行われた場所として知られているのです。

ここ佐那河内村を東西に走るなだらかな高峰「天嶺」は “大川原高原” とも呼ばれ、神山町に続く峰々は “高天原” との古伝承が残っています。同村上牛小屋(大人小屋)には手力男神が祀られている「天石門別神社」が鎮座し、社殿裏上方には手力男命を祀った “塚” があって石門によって鎮められているのです。

「天石門別神社」のご祭神、「手力男神」を祀った “塚” (2)
「天石門別神社」のご祭神、「手力男神」を祀った “塚” (2)

お分かりいただけましたでしょうか。阿波では古事記の主要な神々が歴史上実在のヒトとして扱われ、ヒト(神)の古墳(塚)が築かれてのち神社が建立されて今もなお祭祀が連綿として受け継がれているのです。

『折口学』として名高い碩学、国文学者・民俗学者・詩人・歌人(釈迢空と号した)の折口信夫神話の神々をヒトとして扱う阿波の信仰に注目していたことは有名です(折口信夫全集第二十巻:神道宗教篇[中央公論社])。

大阪西成生まれの大先覚は元々奈良の人で、天皇家のルーツを辿って奈良を調べていたがどうしても7世紀から遡れず、あることがきっかけで遂に皇祖の地が阿波であると確信したと言われています。

「天石門別神社」のご祭神、「手力男神」を祀った “塚” (3)
「天石門別神社」のご祭神、「手力男神」を祀った “塚” (3)

宏大・荘厳な構えの社殿にばかり眼を奪われていては歴史の実相は見えないのです。昭和51年に古代阿波研究会著『邪馬壱国は阿波だった』(新人物往来社)が出版されて第一次邪馬台国阿波説ブームが起こった時、フランキー堺さんからこの本を見せられた日本テレビのプロデューサー山中康男氏はテレビ番組作成のためもありましたが、同時に強い関心を抱かれて阿波にやって来られました。

テレビ番組の製作を始めた山中氏は、約2か月半にわたって同研究会の中心会員岩利大閑氏の案内で徳島県下各地を巡り、翌昭和52年『高天原は阿波だった』(講談社)を著されています。氏は同著で、古事記の神々が “ヒト” として祀られ祭祀が今日まで続いている阿波に驚嘆しておられます。

ご関心のある方はご連絡をいただければいつでも真実の古事記の舞台、阿波をご案内致しますので宜しくお願い致します。