吉野ヶ里遺跡石棺墓の蓋石の「✕印」について

 このところ佐賀県「吉野ヶ里遺跡」石棺墓がマスメデアで大きく取り上げられ、専門家のいろいろな見解が述べられています。この石棺墓の特徴は ① 副葬品がないこと、②  石棺内部に “ 朱 ” が塗られていること、③ 蓋石に多くの「✕印」が付けられていること、の3点ですね。皆さんはこのような特徴からこの石棺墓についてどのようなご意見をお持ちでしょうか。古代史を勉強している者の一人として現時点での私の考えを述べてみたいと思います。

 

 先ず ① 副葬品がないことについては、多くの見方と同じではないかと思いますが、被葬者の位がトップレベルではないということではないかと思われます。また石棺内の幅が36cmと結構狭いことから大人の男性ではないかもしれませんね。

 次に ② 石棺内部に “ 朱 ” が塗られていることについては、水銀朱(辰砂)なのか、であれば中国産か国産か、はたまたベンガラなのか成分分析をしてみないと現段階ではなんとも言えませんね。(国産で阿波の水銀朱(辰砂)であれば面白いことになると思いますが。)

 そして ③ 蓋石に多くの「✕印」が付けられていることについては、4日夜のNHKテレビの番組「クローズアップ現代」では考古学者と国立天文台の方が「星」を書いたのではないかという見方を示しておられましたが、この見方には疑義があります。テレビを見る限り「✕印」は蓋石の表側に付けられていたのではないでしょうか。とすると「星」というのは考えにくいかと思います。例えば奈良県高市郡明日香村の「キトラ古墳」でも天文図は内部に描かれていますし壁画も同様です。「高松塚古墳」の壁画でも同じですね。要は文様・壁画は被葬者が黄泉の国でも見えるように石棺・石室の内側に描かれるのではないでしょうか。

 私は違った見方をしていてそのヒントは島根県の遺跡にあるとみています。皆さんは島根県雲南市加茂町岩倉の「加茂岩倉遺跡」をご存じでしょうか。そうです、平成8年(1996)農道工事で発見された遺跡で、ここからは銅鐸が一箇所の出土数としては日本最多の39個も出土しているのですが、このうちの13個に「✕印」が刻まれているのです。(下の説明板参照)

 

 

 出土銅鐸は平成11年に国指定の重要文化財、平成20年国宝になりました。

 出土当時の状況写真。下は遺跡全体を整備したのちの発見現場の様子。

 また、この加茂岩倉遺跡から西北3.4kmの近く出雲市斐川町神庭の「神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡」からは昭和59年(1984)一度に358本の銅剣が発見され、また翌年にはすぐ横の地点から従来分布圏が違うとされてきた銅鐸6個と銅矛16本が一緒に発見されて考古学者を驚かせたのですが、銅剣358本のうちの何と344本にも「✕印」が刻まれているのです。(下の説明板参照)

 「加茂岩倉遺跡」と「神庭荒神谷遺跡」は山を隔ててすぐの所にあります。

 神庭荒神谷遺跡の遠景です。

 

 農道予定地の発掘調査で、ここから出土した青銅器はすべて国宝に指定されました。

 斜面にこのような状況で発見されました。左側が銅剣358本、右側が銅鐸6個と銅矛16本です。

 左側の銅剣358本(レプリカ)

 このように358本もの銅剣が整然と並べられて埋められていました。発掘当時の様子。

(左横からの写真)

 右側の銅鐸6個と銅矛16本(レプリカ)

 翌年、すぐ横の地点からこのような状況で発見されました。(左横からの写真)

 さてここからです。平成27年(2015)淡路島の南あわじ市西部の松帆地区にある業者の資材置き場の砂山の中から7個の銅鐸(「松帆銅鐸」)が発見されました。この7個の銅鐸には「✕印」はありませんが、非常に興味深いことが分かりました。7個のうちの2個が上述の島根県の2遺跡で出土した銅鐸とそれぞれ同じ石製鋳型で作られた “ 同笵銅鐸 ” であることが確認されたのです。

 具体的には、松帆銅鐸のうちの1個が加茂岩倉遺跡出土の銅鐸39個のうちの1個と、また他の1個が神庭荒神谷遺跡出土の銅鐸6個のうちの1個とそれぞれ同笵であることが分かったのです。

 「松帆銅鐸」7個

 松帆銅鐸と島根の2遺跡の “ 同笵 ” 銅鐸 

 ちなみに難波洋三氏の調査によると、荒神谷3号銅鐸は徳島県美馬市脇町銅鐸と、2号銅鐸は京都市梅ヶ畑4号銅鐸と同笵、加茂岩倉銅鐸と同笵銅鐸の分布は徳島をはじめ中国・近畿・中部北陸の一部地方の広い範囲にわたっていることが判明しました。(拙著『古代史入門』25~26頁) 

 以上のことから私は次のように考えております。古代阿波海人族3部族の一つ、県南の大国主・事代主系の “ 加茂族 ” が全国に進出・開拓をする一環で、出雲では平定後に役割を終えた青銅器に「✕印」を付けて埋蔵し、北九州においても平定後に石棺墓蓋石に「✕印」を付けて埋葬したのではないかと。ご存じのように明治三年の庚午事変までは淡路島は阿波の支配下にありました。なので、南あわじ市出土の「松帆銅鐸」に「✕印」がないのは当然のことで、古代阿波の海人族が進出した先々でこのような事象が起こっているのではないかということなのです。

 このような突拍子もない話は、古代史専門家はもちろん一般市民の殆どの方からは一笑に付されるでしょう。でも私は次のような事実からするとあながちあり得ないことではないと考えています。

①  全国に阿波(粟)と名の付く延喜式内社が奈良県斑鳩町をはじめ15社も鎮座しており、また阿波から勧請分祀されるなど阿波由来の神社がこれまた全国に散在し、阿波の神様が祀られていること。(同166~172頁)

②  明治22年市制・町村制施行当時、現在分かっているだけでも、奈良県斑鳩町をはじめ、三重県伊賀市、茨城県稲敷市、岡山県津山市には「旧阿波村」が存在していること。(同172頁)

③  五穀を始め織物、焼物、漆器、漁業など阿波の技術・文化が広く全国に広まっていること。 

 如何でしょうか。もう一点私が問題意識を持っているのは「石棺墓」そのものです。というのは冒頭写真だけを見せられたら私たち阿波の者は、「これは阿波特有の箱式石棺、“ 阿波式石棺 ” だ。」と考えると思うのですが。‥‥‥

阿波では弥生時代前期から水銀朱が使用された「石棺墓」があり(ex.南蔵本遺跡 : 次の写真参照)、のち阿波特産の結晶片岩 “ 阿波の青石 ” を用いた箱式石棺(阿波式石棺)が吉野川下流域を中心に多く見られ、その内部には “ 朱 ”(辰砂:水銀朱)が塗られているものもみられます。 次の二つ目の写真は徳島市丈六町丈領の「丈六寺」宝物館玄関横にある「丈領古墳」(丈六寺裏山の吉田山)出土の結晶片岩製箱式石棺で内部は一面に “ 朱 ” が塗られています。

 南蔵本遺跡の石棺墓(弥生時代前期)

 丈領古墳出土の箱式石棺(丈六寺宝物館前)

 私は本格的に古代史の勉強を始めた平成26年当時、先達のお一人からこの「箱式石棺」は阿波特有で “ 阿波式石棺 ” であると教えを受け、以後ず~っとそのように考えてきたのですが、近年車で全国を探訪していると、この「箱式石棺」は必ずしも阿波の専売特許ではないことが分かりました。(また九州の特徴的な墓は「甕棺墓」だと教えられましたが、阿波でも甕棺墓は確認されています。(ex.弥生時代前期の「庄・蔵本遺跡」 :  次の写真))

 庄・蔵本遺跡の甕棺墓(弥生時代前期)

 以下は、関東の箱式石棺の一例です。例えば、千葉、茨城では地元の石材を用いた「箱式石棺」が多く出土しています。

千葉県芝山町の6世紀築造「山田・宝馬古墳群103号墳」(前方後円墳:全長30~40m)

 茨城県ひたちなか市「入道古墳群」。以下2枚も同じ。

 

 

 茨城県勝田市の古墳時代後期(5世紀末~7世紀)築造「鉾の宮古墳群 第1号墳」(前方後円墳:全長32m)の凝灰岩製組み合わせ箱式石棺

 

茨城県行方市の5世紀後半築造「三昧塚古墳」(前方後円墳:全長85m)の二重の箱式石棺

 

 一方北九州においても、吉野ヶ里遺跡の今回出土の石棺墓だけではなく、平成21年から発掘調査が行われている北九州市小倉南区城野の弥生時代後期終末(紀元2世紀頃)の「城野遺跡」でも2基の「箱式石棺」が確認され、内部には鮮やかな多量の水銀朱が撒かれています。(北九州市文化企画課の学芸員のお話では水銀朱の詳細は不明とのこと。)

 阿波、関東、北九州の箱式石棺それぞれの築造年代をはじめ検討すべき点は幾つもありますが、私は以上のような問題意識をもって今回の吉野ヶ里遺跡の石棺墓に注目しております。阿波と関東、出雲に北九州、この関係にますます目が離せません。このブログをお読みいただいてご意見等がございましたら「fujii@kodaishi.org」までお寄せいただければ有り難いです。