古代阿波“倭”人全国進出の足跡

全国に鎮座する “阿波神” を祀る延喜式内社(※)

(※「延喜式内社」:律令の施行細目(格式)を収めたものが「延喜式」で、927年に撰上され、その巻九・十には朝廷が幣帛(みてぐら)をそなえる重要な神社として全国で2,861社、3,132座が登載されており、これを「延喜式内社」(略して「式内社」という。)といい、これが登載されている巻九・十のことを「延喜式神名帳」という。)

全国には「阿波(粟)」と名の付く神社、それも大和朝廷が重要と認めた延喜式内社が多くの県に鎮座しています。他国において阿波神社を式内社で定めさせた古代における阿波国の強大な存在とその影響力は想像をはるかに超えるものがあり、正に瞠目の古代阿波 “倭” 人躍動の全国開拓の歴史の足跡です。
(※「阿波国」は令制国(律令国)以前、北の「粟国」と南の「長国」の二つの国があり、それぞれ国造(くにのみやつこ)が治めていた。)

次にご紹介するのは、古代より阿波の「海人族(あまぞく)」が全国各地に進出し諸国の開拓を行った足跡を示す全国に鎮座する阿波神を祀る式内社です。
(岩利大閑著「道は阿波より始まる」(その二)14頁より引用)

①「粟神社」(山城国綴喜郡:現、京都府城陽市市辺字粟谷御祭神:少名毘古那命
粟神社(京都府城陽市)
粟神社(京都府城陽市)
②「率川阿波神社」(大倭国添川郡:現、奈良県奈良市本子守町)御祭神:事代主命
率川阿波神社(奈良県奈良市)
③「粟神社」(「淡路神社」)(和泉国北泉郡:現、大阪府泉大津市式内町)御祭神:須佐之男命・天太玉命
粟神社(大阪府泉大津市)
粟神社(大阪府泉大津市)
④「阿波神社」(伊賀国山田郡:現、三重県伊賀市下阿波字宮谷)御祭神:稚日女尊・猿田彦命など
阿波神社(三重県伊賀市)
⑤「粟王子神社」(伊勢国:現、三重県伊勢市二見町)御祭神:淡海子神
粟王子神社(三重県伊勢市)
⑥「粟島坐乎多乃御子神社」(志摩国粟島坐伊射波:現、三重県志摩市磯部町)御祭神:大年神
粟島坐乎多乃御子神社(三重県志摩市)
⑦「淡海国魂神社」(遠江国磐田郡:現、静岡県磐田市見付)御祭神:大国主命
淡海国魂神社(静岡県磐田市)
淡海国魂神社(静岡県磐田市)
⑧「阿波波神社」(遠江国佐野郡:現、静岡県掛川市初馬)御祭神:阿波比売命
阿波波神社(静岡県掛川市)
阿波波神社(静岡県掛川市)
⑨「阿波命神社」(伊豆国加茂郡:現、東京都神津島村)御祭神:阿波姫命 -名神大社-
阿波命神社(東京都神津島村)
⑩「安房神社」安房国安房郡:現、千葉県館山市大神宮)御祭神:天太玉命 -名神大社・旧官幣大社-
安房神社(千葉県館山市)
安房神社(千葉県館山市)
安房神社(千葉県館山市)
⑪「阿波山上神社」(常陸国那賀郡:現、茨城県東茨城郡城里町阿波山御祭神:少名毘古那命
阿波山上神社(茨城県東茨城郡)
阿波山上神社(茨城県東茨城郡)
⑫「粟狭神社」(信濃国埴科郡:現、長野県千曲市大字粟佐字宮内宮浦)御祭神:建御名方命・事代主命・少名毘古那命
粟狭神社(長野県千曲市)
⑬「安房神社」(下野国寒川郡:現、栃木県小山市粟宮御祭神:天太玉命
安房神社(栃木県小山市)
安房神社(栃木県小山市)
⑭「阿波庭神社(阿波路神社)」(播磨国揖保郡:現、兵庫県たつの市揖保町)御祭神:建御雷神
阿波庭神社(兵庫県たつの市)
「中臣印達神社」に合祀されています。
阿波庭神社(兵庫県たつの市)
⑮「一粟神社」(美作国:現、岡山県真庭市社字於和佐)御祭神:神大市姫命
一粟神社(岡山県真庭市)
一粟神社(岡山県真庭市)
一粟神社(岡山県真庭市)

このように、全国各地に進出し諸国の開拓を行ったのが、阿波の「海人族(あまぞく)」の三部族なのです。

【阿波の海人族】
  1. 宇豆彦系鳴門周辺が本拠地

    子孫は、のち大倭(大和)氏、海直(うみのあたい)等を名乗る。

  2. 綿都美(海人)系吉野川下流南岸が本拠地

    子孫は、のち安曇(あずみ)氏、海犬養(あまのいぬかい)氏、大海(おおしあま)氏等を名乗る。

  3. 大国主命・事代主命系県南海岸部が本拠地

    子孫は、のち賀茂(鴨)氏、大神(みわ)氏、我孫(あびこ)氏、宗形(むなかた)氏、長(なが)氏等を名乗る。

これら三部族の海人族が、古事記上つ巻「伊邪那岐命の禊祓(みそぎはらい)」のくだりに出てくる“住吉三神”、それぞれ上筒之男(うわつつのを)命中筒之男(なかつつのを)命底筒之男(そこつつのを)命で、板野郡藍住町住吉に鎮座する「住吉神社」で祀られている神々です。

ここはもともと旧住吉村全体が当神社の社地であり、大阪市住吉区の「住吉大社」も当神社の分祀であるとのことです。
(岩利大閑著「道は阿波より始まる」(その一)122頁)

「住吉神社」(徳島県板野郡藍住町住吉)を北方向から見る
「住吉神社」(徳島県板野郡藍住町住吉)を北方向から見る
西から社殿を見る
西から社殿を見る
めずらしい扁額
めずらしい扁額
社殿を見通す
社殿を見通す
社殿
社殿
本殿向かって左側の扁額(表筒男命・中筒男命)
本殿向かって左側の扁額(表筒男命・中筒男命)
本殿向かって左側の扁額(表筒男命・中筒男命)【拡大写真】
本殿向かって左側の扁額(表筒男命・中筒男命)【拡大写真】

古代「倭(やまと)」と「大倭(おおやまと)」

魏志倭人伝に次のような記述があります。
『国々に市ありて、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ。』
(国々には市があって余剰品と不足品を交換し合って交易をしており、大倭という役職の者にこれを監督させています。)

この「大倭」は、倭の官吏の名称、役職名で、現代で言えば局長、部長といったところでしょうか。女王卑弥呼の名代として国々の市を監督する権限を持っていたのです。
まさに大いなる倭の意味で使用されていたと思われますが、特にこの「大倭」の役職を担ったのが阿波鳴門の「宇豆彦(珍彦)」とその一族であったのです。

紀元3世紀前半卑弥呼の時代、阿波は「倭(邪馬臺:やまと)」と呼ばれていました。阿波鳴門の海人族(あまぞく)の大人(うし)「宇豆彦(珍彦)」一族が中心となって「大倭(おおやまと)」として全国を移動して国々の市を監督し、列島における東西の市の交易拠点を奈良纏向に置いて彼らの駐留本部としたことで纏向が東西の人々の集まる都市的形態を整えていったと考えられます。

奈良纏向が「宇豆彦」一族大倭氏の開拓地と目され、これが時とともに地名「大倭」の由来になったものと考えられます。阿波「倭」が開拓した “大いなる倭” 、副都の誕生です。これが開拓氏族(宇豆彦の子孫)によって伝承され、やがて律令制の「大倭国」となりました。

新撰姓氏録(※1)にはこのことがはっきりと分かる記述があります。「大和宿禰(やまとのすくね)」の説明で、神武天皇が速吸門(はやすひのと)で出逢った国つ神「宇豆彦(珍彦)」を「神知津彦(かむしりつひこ):別名椎根津彦(しひねつひこ)」と名付け、その軍功により「大倭国造(やまとのくにのみやつこ)」に任じていますが、この大倭国造は「大倭直(やまとのあたひ)」の始祖であると書かれているのです。つまり、古代「大倭」の地を治めたのが鳴門の宇豆彦であるということです。新撰姓氏録研究の第一人者佐伯有清氏も、また黛弘道氏も鳴門の大人(うし)だとは言っておられませんが(※2)、どうか新撰姓氏録・日本書紀・古事記の件の箇所を素直に読んでみて下さい。速吸門の宇豆彦とあれば、海水が大きく渦巻きのように吸い込まれるあの天下に名高い渦潮のある阿波鳴門以外には考えられないではありませんか、如何でしょうか。
※1 平安時代初期、弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑
※2 佐伯有清著『新撰姓氏録の研究 本文篇』251頁、『同 考證篇 第四』85~95頁:吉川弘文館

魏志倭人伝にまた曰く、『女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり。』

阿波の  “倭” 人が海を越えて奈良纏向で拓いた地「大倭」であったからこそ倭人伝に記されているように阿波と奈良纏向が同じ倭種であったということが言えるのです。
この鳴門の「宇豆彦(珍彦)」をご祭神とする「宇志比古神社」と、すぐ裏山の宇志比古が葬られた「西山谷2号墳」をご紹介致します。

「宇志比古神社」(社殿によれば創立年代は太古)

県道12号線(通称:鳴池線)沿い、JR阿波大谷駅の北、「阿波神社」のすぐ東に鎮座しています。
鳥居前の信号のすぐ真北に「宇志比古神社」と彫り込まれた石柱があるのですぐ分かります(車も通行できます)。

宇志比古神社・鳥居(全体)
県道沿いから北を見る
宇志比古神社・石柱と鳥居
石柱と鳥居
神社遠景
神社遠景
参道階段下から社殿を見る
参道階段下から社殿を見る
拝殿
拝殿です。
拝殿と本殿
 社殿右横からの全景。後方、白っぽく見える銅板葺きの屋根が本殿です。

「西山谷2号墳」

その北側の山にあったのが「宇豆彦(珍彦)」のお墓「西山谷2号墳」です。平成12年の高松自動車道の整備に伴って取り壊され、現在は県立埋蔵文化財センターの敷地内に移築復元されています。その様子と説明表示写真をご覧頂きましょう。

移築復元古墳(透明板で覆われている。)
全面を透明板で覆われて保護されている復元された竪穴式石室

紀元3世紀半ばに築造された、直径約20mの竪穴式石室を有する円墳です。
平成12年の発掘調査時には、畿内等の学者が大挙してやって来て現地を見て絶句するほどの驚きだったそうです。

畿内説の第一人者の1人、かつて徳島文理大学香川校の教授であった石野博信氏の新聞解説(※)によれば、『平石を積み、狭くて長い石室を作るのは四世紀の大和政権の葬法である。それと同タイプが三世紀中ごろの徳島にあるとは何ごとか、と学会は騒然とした。』と同氏に言わしめたほどの古墳です。
(※ 平成12年5月20日(土)付、徳島新聞朝刊)

要するに諸学者が一致して認めざるを得なかった事実は、この古墳が奈良盆地の初期王墓とされる「箸墓古墳」など畿内の数多くの巨大前方後円墳のルーツであることが明らかになったということです。この古墳一つ取っても阿波と奈良との関係がよくご理解頂けるものと思います。

石野博信氏の解説記事
石野博信氏の解説記事
説明表示写真 (1)
説明表示写真 (1)
説明表示写真 (2)
説明表示写真 (2)
説明表示写真 (3)
説明表示写真 (3)(石室床面には大量の水銀朱が塗られていました。)

石室内部からは「斜縁上方乍銘獣帯鏡」が出土しています。
この鏡は中国製の青銅鏡で、あの有名な三角縁神獣鏡よりも20~30年古く、ここから1.5kmほど西の「萩原1号墓」や奈良「ホケノ山古墳」で出土した「画文帯神獣鏡」とほぼ同時期の鏡です。

斜縁上方乍銘獣帯鏡(資料写真)
斜縁上方乍銘獣帯鏡(資料写真)