フジテレビの番組ロケに同行

 

 阿波史跡公園

 先日8月27日(土)フジテレビの番組ロケが徳島であり取材・撮影に同行してまいりました。先週徳島商工会議所青年部の山本高弘さんからご依頼がありました。「フジテレビで邪馬台国をテーマにした番組を作成するのですが阿波説に興味を持って頂きロケが行われることになったので同行して頂けませんか。」と。二つ返事で承諾、諸準備をして当日飛行便で来られたクルーご一行と昼前「阿波史跡公園」で落ち合い、クルー代表者、ロケ隊長のアンガールズ田中卓志さんと挨拶ののち、早速撮影に入りました。我が家で猛勉強した山本さん、復元された古代竪穴住居横でいささか緊張気味ながらやる気満々の表情で青石階段を上って近づいた田中隊長とのやり取りが始まりました。歴史に造詣ある由、田中隊長のいろいろな問いかけに身振り手振りで懸命に説明する山本さん。エフエムびざん“邪馬台国は阿波だった!?”(YouTube動画配信)レギュラーとして人気のヤマモトタケルノミコト。「頑張れ、ヤマモトタケルノミコト!」心で叫んでカメラの後ろから見守りました。時折ジェスチャーでシグナルを送りながら。

 四国霊場第21番太龍寺へのへんろ道(四国のみち)

 30分ほどで「ハイ、オーケーです。」の声。その後各々車で阿南市水井町の「若杉山遺跡」へ移動。アレッ、八倉比売神社奥の院(卑弥呼の神陵)には行かないの?エエッ!?時間がないとはいえ、と首をかしげつつ車中に。1時間ほどで弥生時代終末期の辰砂採掘遺跡「若杉山遺跡」(※1)ふもとの1級河川那賀川水井橋たもとに到着。私は案内役の横井知昭さん(加茂谷へんろ道の会々長)の軽トラの助手席に乗り込み一足先に採掘遺跡下方の若杉谷川沿い(四国霊場第20番鶴林寺から第21番太龍寺への)お遍路休憩所“あずま屋”へ。道中心の叫び(チョ、チョッと横井さん、こんな崖道、車大丈夫!?)私の青ざめた表情にも一向にお構いなし、あれこれ人なつっこくしゃべりながら「四駆なんでね、遍路道を点検整備しながら毎日のように通っているんですわ。」、「いやいやおしゃべりはいいので運転に集中して下さい!頼みます!」崖側助手席の私は生きた心地がしません。カーブの度に目前は崖下、「どうか脱輪しませんように!」ドアの取っ手を握りしめ“南無大師遍照金剛”を心で何度も唱えながら身体は必然的に右へ傾いて冷や汗10分、降りてアア~ア、ヤレヤレ。

 

 若杉谷川(辰砂採掘遺跡への登り口)

 

 

 

 


 山本さん、田中隊長のクルー一行は30分ほどして話しながら到着。あずま屋横でまた熱いやり取りに。アンガールズの相方山根さんとのコント・漫才で鳴らしたツッコミ、鋭い質問を連発、負けじと必死に食い下がるヤマモトタケルノミコト。「ハイ、オーケーです。」はてさて田中隊長の採点、「若杉山遺跡」と邪馬台国阿波説に対する心証は何パーセント!? オッと、それは番組(※2)を観てのお楽しみ。

 辰砂原石(横井知昭さん提供:以下同じ)

 

 

 石 臼

※1 魏志倭人伝の記述『其の山に丹あり。』この記述どおり、卑弥呼の生きた3世紀邪馬台国時代の「丹」(辰砂・水銀朱・硫化水銀(HgS))の採掘遺跡は全国でただ1箇所ここだけ。(昭和40年代の早稲田大学考古学教室の全国360数箇所の調査結果から)昭和20年代から数度の調査結果により弥生時代末期から古墳時代にかけての土器、石杵・石臼・辰砂原石等が発見されていたが、平成30年県教委と阿南市の合同調査の結果、ここ若杉山の山腹(標高245m)で全長12.7m、高さ0.7m~1.2m、中心部の幅約3mの「坑道跡」が確認され、坑道内からは辰砂原石、辰砂精製に使った石杵などの石器とともに弥生時代後期の土器片5点が出土し、弥生時代後期(1~3世紀)の国内最古の鉱山遺跡であると確認された。
(これまでの国内最古は山口県美祢市の奈良時代の銅鉱山抗跡であるが、それを一気に500年以上も遡ることとなった。また「弥生時代は稲作の時代というイメージを根本から覆し、弥生時代後期既に阿波では人工的に坑道を掘り進むだけの技術を持った“工人集団”が存在したことになる画期的な発見である。」と学者に驚きをもって受け止められている。(徳島文理大学大久保哲也教授談))
 さらに、ここ「若杉山遺跡」から那賀川数キロ下流右岸で平成30年度河川改修事業により「加茂宮ノ前遺跡」が発見された。現地説明会によれば、調査表面積約1haで先ず 弥生時代では2つの時期の集落が発見されており、中期末~後期初頭(約2,050~1,950年前)の集落からは20軒の竪穴住居が、後期後半~古墳時代初頭(約1,800~1,700年前)の集落からは22軒の竪穴住居がそれぞれ検出され、10軒の竪穴住居からは“鍛冶炉”の発見とともに水銀朱生産に使用した石杵・石臼等が出土している。「若杉山遺跡」よりも確実に古い時期である弥生時代中期末から後期初頭(紀元前後)に辰砂を利用して貴重な水銀朱の生産を行っていたことが確認されている。(平成30年7月14日説明会)
弥生時代中期末(約2,000年前)の生活面より約1m下から縄文時代後期(約4,000年~3,000年前)の集落が確認されたが、驚くべきことにここからも水銀朱を生産するための道具類、水銀朱の付着した石杵・石臼が300点以上、原料となった辰砂原石も多量に出土しており、縄文時代の水銀朱関連遺物の出土数としては国内最大規模である。①の弥生時代中期(約2,000年前)よりもなお1,500年以上も遡ることが明らかになったのである。このように、「加茂宮ノ前遺跡」の集落は出土した土器の年代から縄文後期全般の長期間にわたって継続していることが判明、当時の人々にとって重要な一大拠点であったと考えられる。(平成31年2月23日説明会)
(畿内説が血眼になって探し当てた三重県松阪市小片野町の山林で発見された弥生時代の「太田・臼ヶ谷遺跡」の辰砂採掘跡とみられている場所の出土物はわずか数十点である。)

 休憩所横の説明板写真(以下同じ)

※2 フジテレビ「世界の何だコレ!?ミステリー」(毎週水曜日午後7時~8時)今回のロケを踏まえた放送は9月21日(水)午後7時から他の幾つかのミステリーのとともに放送予定とか。ただ、ロケ内容を局内で検討した上で決定するそうで放送されないこともあり得るんだそうです。

 

 

 午後3時半にロケ終了。真っ赤に日焼けしたヤマトタケルノミコト、大変お疲れ様でした!貴方の熱意は十分田中隊長に通じたと思いますよ。私も心地よい疲労を感じながら帰途に着きました。やっぱり「加茂宮ノ前遺跡」も行って欲しかったよなあ。ちょっぴり未練を抱いたまま湯船に飛び込みました。そして思い起こしておりました。現職時代の若かりし頃県庁地方課で那賀郡の町村へ出張するときに同僚と交わした言葉「“丹生谷”へ行ってくるわ。」古来より那賀郡はそう呼ばれ、因んだ地名・橋等が散在しています。
どうか放送されますように!願いつつ床に着きました。
なお、魏志倭人伝の記述の「朱」と「若杉山遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」については、いずれ写真解説(考古学・魏志倭人伝)で詳しい説明をさせていただきますので乞うご期待。